新しいもの
私はゲームが好きだ。いや、好きだったのだろうか。
初めて遊んだゲームが小学生の頃親に買ってもらったポケットモンスター金・銀。私が銀、姉が金を買ってもらい交換をしたり対戦をしたり、長く遊んでいたように思う。
そしてその後も色々な携帯ゲームやテレビゲームを遊び、今ではインターネットを繋いで色々な人とゲームをして遊んでいる。
しかし今私の中で何か、小さな違和感がある事に気付いている。本当にこのゲームは楽しいのだろうか。私は今何がしたいのだろうか。楽しいから遊んでいるはずのゲームに何か強迫観念や義務感のようなものを感じているのだ。
こういったものを感じ始めたのはインターネットに触れて多くのプレイヤーと交流したり、上位陣の自分には絶対に真似できないであろう動画を見たりした辺りから感じ始めたものだ。
私はお世辞にも頭がいいとは言えない。何か突出した特技があるわけでもない。だからこそ、幼少期から長く身近にあったゲームこそが自分にとって最も大切なものになってしまったからなのだと思う。
私にはゲームしかない。だのにゲームですら私は多くの人たちに劣る。でも劣っているからと言ってそこで投げ出すと私の存在意義はすべて失われてしまう。だからやめるわけにはいかない。そういった気持ちが私にゲームに対する義務感を与えているのだと思う。
そもそも、先ほど言ったように私はゲームばかりをして生きてきた。対して運動もせず、他の趣味を持たず。そういう生き方に少し後悔すらある。
よく聞く話には「新しい事を始めるのに早いも遅いもない。」という事だ。そうなのだろう。きっとそうなのだろう。私も新しく何かを始めたいという気持ちはある。しかし知識の乏しい私には、自信を喪失している私には、新しく何かを始めることさえ難しくなっている。
勿論このままで良いとは私も思っていない。大人になった今、色々な分野に目を向けて色々なものに触れていきたいと思っている。
私が好きなものは何だろう。そう、絵を見るのが好きだ。ゲームのファンアートを見るのが。綺麗なもの、可愛いもの、幻想的なもの。
私にもああいったものを今から始めても描けるのだろうか。今すぐでなくても何年後、何十年後には。
自分に自信が持てればゲームに対しても気持ちも変わるだろう。
今私の唯一であるゲームに対してまた昔のように前向きに付き合うためにも今私がするべきなのは、新しい何かを始め成長する楽しさを思い出すことなのかもしれない。
記憶の想起とその切っ掛け
私がこのブログを書こうと思った切っ掛けはインターネットの知り合いと通話をしているときにブログを書けと強要され続けているのを聞いたからなのだが、文章に起こせるほどの出来事が私の身の回りにあるのだろうか?という気持ちもあった。
だから最初はブログ書くか!いや書くことが無いな、やめるか!という繰り返しだったのだが、そういう話をしているうちに「夢」の話になった。
最近見た夢、昔見た夢、そこから繋がって今覚えている記憶の中で一番最古の記憶は何か。
そういう話をしているうちにふと思ったのだが私の夢は基本的に嫌な事ばかりなのだ。
幸せな夢は忘れて嫌な夢は覚えているだけだと言われればそこまでなのだが、先ほど言ったが夢から記憶に会話が転じたように夢に見るという事は自分が忘れていても記憶には残っているのだろうと、私は思っている。
そこで嫌な夢しか見ないというのは、嫌な記憶ばかりが強く残っているのではないか?という考えが私の中で浮かんだ。
確かにそう考えてみると、幸せな記憶、というのはあまり覚えてない。思い出話をする時も「昔〇〇があってホント嫌だったんだよなぁ」というネガティブな話が出てしまう。これは私の性格のせいだったり、そもそも私の生活が同じことの繰り返しで想定外の出来事はほぼほぼ仕事のアクシデントだったりするせいもあるのだろう。
とはいえそれを加味した上でも嫌な記憶が残りやすいと私は思うのだ。
夢を見てそれに紐づいたであろう出来事を思い出す、というのは私が体験することだ。
実際今日見た夢だが、FF14というゲームで極蛮神かレイド(とりあえずマクロ、つまり予め情報共有をしておかなければならないからその情報共有のために流すテンプレートみたいなものが流れたからそうなんだろうと思っている)で私が「とりあえずクリアさえ出来れば適当でええやろ」という考えで動いたところ一人にブチギレられ、リアルファイトに発展したというものなのだが、ネットゲームでリアルファイトとは何ぞやと今は思うのだけど・・兎に角その相手が小学生の5年生頃?に私が最も嫌っていた相手で、嫌な出来事の夢だから嫌な相手を当てはめたのだろうが起きた時にその相手との記憶を振り返った。小学5年生の頃に嫌いな相手だったと言ったが、実はその相手とは入学した直後頃は仲が良かった。仲が悪くなった原因が私もまだ幼くいじめ行為をしてしまいそこで親に怒られて改心し関わりを断ったという流れなのだが、まぁそれは置いておくとして、「仲が良かった時期」と「仲が悪かった時期」があるというのに彼に対する思い出というのが全て嫌なものだけなのだ。
私の考えとして、「好きと嫌いは一時的な感情」であって、嫌なことをされたから嫌い!と思ってもまた後日その人物の良い面を見た場合、やはり彼は良心を持っているのだなと思う。そういった事を私は昔から多く見てきて、だからこそ嫌な事をされるというのはその人物と考えが対立し、一時的な小さな争いになったからこそ嫌いになっただけで考えが一致した場合はやはり好ましい相手にも見えるのだ。
何が言いたいかというと良い面や悪い面があるのだと頭でだけでも理解できていると言うのに、やはりいち個人に対しての思い出を振り返った場合、思い返せるのは嫌な思い出ばかりだ。
逆に今も仲良くしている友人に対する思い出を振り返っても楽しかった等の思い出は薄く、昔その友人に対して悪いことをしてしまったなぁ。という正直忘れたい嫌な記憶だけが思い出せてしまう。
話がかなり脱線したような気がする。
これは「私は寧ろいい思い出ばかり残っているなぁ」という人も居るのだろう。しかし私は嫌な記憶ばかりが残る。ここには一体どういう違いがあるんだろう。
私も嫌な記憶なんて忘れ去りたい。しかし何か切っ掛けがあるとやはり思い出してしまうのだ。私は物事を卑屈に考えがちだと知り合いに言われるし、実際そうだと思う。
だからこそ、幸せな記憶をたくさん思い返せるように、そういう記憶を思い返せる切っ掛け・・つまり幸せな出来事とたくさん出会いたいなぁと思った。